学生や新入社員を過保護に扱う社会とは? 彼らをアプリのように「バグ修正」しようとするその先には・・・【仲正昌樹】
無駄なパターナリズムの背後にある「人間」観に注目せよ!
◾️オウム真理教事件でサリンを作った信者は「理系の高学歴」だった
オウム真理教事件が起こった後、サリンを作った信者が理系の高学歴だったことから、文科省は各大学に、理系的要素と文系的要素が混じった教養科目を作るように促させた。それに応えて多くの大学が、「〇〇倫理」とか「社会と科学・技術」といったようなタイトルで、いろんな領域の教員がかわるがわる出てきて、相互にそれほど関連のない入門の入門のような話をするオムニバス形式の授業を作った。
大学や文科省が「学生のため」だと言ってやっている、そうしたパターナリズム的プロジェクトは、実際学生にどう影響を与えるかをあまり考慮していない。「学生のため」に何かのプロジェクトを実行し、学生がそれを“受け入れた”という事実が重要なのである。こうしたプロジェクトを考案した人たちにとっても、学生が実際にメンタルな危機から脱することができるのか、オウム真理教のようなテロ行為に走ることの歯止めになっているのかは、正直言ってどうでもいいのだろう。
そうした意味では無駄なことをやっているわけで、単なるバカげた話かもしれないが、私はこうした無駄なパターナリズムの背後にある「人間」観に注目したい。文科省や大学は、学生を、自発的に行動するがゆえにどう働きかけたらどう反応するか分からない主体ではなく、機械的な操作によってバグを修正して、正常に機能させることのできるアプリとかゲームのキャラのように見ていると思える。
自発的に自分の幸福を追求する主体であれば、何が本人の幸福になるか、どこで充実感を覚えるか分からない。授業に出ないので留年することになっても、留年によって生じる時間の余裕で何かやり甲斐のあることを見つけるかもしれない。自殺・不登校防止のための面談を強制することで、かえってその学生を追い込む可能性があるかもしれない――私はその危険の方が高いのではないか、と思う。キャリア・プランの授業に出ることで、かえって混乱してしまう学生も出てくるかもしれない。
そういうことを考えれば、学生の行動を無理に予め決まったフォーマットの中に収めようと
学生は当然、文科省や大学当局に完全にマインド・コントロール(MC)されて言いなりになっているわけではない。しかし面倒だと思いながらも、面談に応じ、定期的に身体測定を受け、学生証で出席記録システムに毎回アクセスし、ある時期になると大学の進路担当部門からの勧めで公務員試験講座などを受講し、就職のためのエントリー・シートの書き方を学ぶようになる。そして少しずつ行動パターンがフォーマット化され、それから逸脱することに不安を覚えるようになる。